遠州 渋川の紹介 


渋川は引佐町の最北端に位置します。
西に鳳来町、北に佐久間町、東に天竜市熊と境しています。
ここから浜名湖へ注ぐ都田川の源流、久留米木川が始まります。
そしてこの川の水は広く浜松の飲料水としても使われます。


山吹の花、藤の花が道沿いに咲き乱れる春

蛍の舞う夏

あけびの実る秋

雪景色の冬

渋川には四季それぞれの顔があります。


渋川は1000人足らずの集落です

渋川は
珍田、久井田、元組、宮脇、儀光、古東土、細木田
西平、寺野、大代、大平、川宇連
の集落の集まりです

渋川には1000年にわたる歴史があります
1187年には渋谷金王丸が珍撓にて憤死したと伝えられます。
1420年儀光左門之七、儀光温泉発見
1530年頃、明室禅師大平温泉発見
昔は交通が不便だったので南(浜松)とのつながりよりも
秋葉街道等を通じて三遠南信の東西のつながりが大きかったようです。
明治6年には郡下で最も早く渋川小学校が創設されました。

校歌

1. 清き泉の名に響く
この渋川のまなびやに
手とりかわしてつどいくる
よろこびなににたとうべき

2. あを空さしてそびえたつ
銀杏のすがた仰ぎては
たかきのぞみにくらべつつ
日々のつとめにはげむなり

3. まことのみちをひとすじに
良きくにたみとおいたちて
山水ともにうるわしく
里のほまれを世にあげん

 小学校音楽の先生が、この校歌は歌詞、メロディーともに素晴らしく、これだけ良いものはなかなかない、と言っていたのを覚えています。校歌の二番には学校近くにある樹齢600年の大銀杏が歌われ、落ち葉が大量に落ちる秋には今も朝早くから小学生が竹ぼうきで落ち葉を掃きます。



 僕の小学生の頃の思い出

  には児童会のお金をつくるために全校でワラビ取りをします。たくさん持っていくことを楽しみに家で少しでも多くとワラビ取りに熱中しました。

  にはキャンプ、きもだめし大会、山の中でいろんな草木を集めて工作したりしました。

  には渋川のお祭りがあります。小学生自作の御神輿を担いでまちを練りました。

 虫祭りでは自分たちが捕まえてきた虫を虫かごに入れて暗くした図書館に置き、虫の音をみんなで鑑賞しました。死んでしまった虫は虫塚にみんなで供養しました。

  にグランドが凍ればみんな外に出てスケートのまねをして滑って遊びました。たまに雪が積もると学校が休校になりました。雪は子供たちにとって何よりもうれしいものです。また正月明けには冬休み自作の凧で田んぼで凧揚げ大会がありました。

 豊かな四季の中で行われる季節感ある行事というのはいつまでも良い思い出として残るものです。勉学だけでなく、こういった行事もいつまでも大事にしてもらいたいですね。

 1学年10名足らずの小学校だったので、春はミニバスケット、夏は水泳と陸上、秋には音楽発表会と、小学校4年生以上は小学校の代表として他の大きな学校といっしょにそれぞれの大会に出なければいけないので休む間なく必死に練習しました。運動が苦手な人も関係なく全員参加で、今考えると小学生が楽しかったけど一番大変でした。
でもおかげで運動が苦手にも関わらず、中学校、高校と人並み以上にいろいろ出来て助かりました。

 秋の郡の音楽発表会は全員でクラッシックを演奏しました。今考えると音楽を得意な人も苦手な人もいろんな人がいる中でよくあのような演奏が出来たものです。コントラバスからアコーディオンからみんなどうやってあの短期間に覚えたのか中にいた自分ながら不思議です。子どもの底力と、それを引き出した指導者(西岡先生)の力量に感服です。3年生の時はまだ演奏には参加していませんでしたが、先輩が演奏する「アニトラの踊り」を聞いて感動し、自分が4年生の時には「悲しみのシンフォニー(モーツァルト)」、5年生の時には「四季(ビバルディ)」、6年生の時には「シバの女王」を演奏しました。あの感動は今も忘れません。こういった経験を子どもの時に多くさせてもらった事を感謝しています。今考えると選曲もすごいなと思います。

 小学校の帰り道、変わった木の実を付ける樹齢700年の菩提樹があります。近くには井伊家ゆかりのお墓があります。



 渋川には県指定天然記念物のシブカワツツジが群生しています。このツツジは背丈が6〜7mにもなるツツジです。5月下旬から6月初旬にかけて渋川つつじ祭りが行われます。



 シブカワツツジが群生する中には様々なまた珍しい動植物が見られます。その中には今、全国的にも数が減ってしまったギフチョウもいます。

 見に行くとギフチョウは何も知らず僕たちの方へ寄ってきます。ある学校の先生は、渋川へギフチョウを取りに来て、自分の学校へ持っていって羽化させて子供たちに見せているそうです。何かおかしいですね。自然の中だから美しいギフチョウ、みんなでいつまでも大事に守りたいものです。

 山深い寺野の集落では1月3日に400年続くという寺野ひよんどりが行われます。

 当日は、寒い中、各地から見物客やカメラマンが大勢集まり、寺野へつながる狭い道路はますます狭くなります。18時過ぎ、暗くなってくると、いよいよ松明を使ったクライマックス鬼の舞がはじまります。山深い山里でおこなわれるこれらの舞は、素朴ですが、現在の派手でリアルな映像や演劇に慣れてしまっている現代人の心に何か響くものがあると思います。(なお、日当たりも悪く、暗くなるまでおこなわれるひよんどりを見に行く場合には、手袋、マフラー、スキーウエアなど防寒具は必須です。)

大勢の見物客やカメラマン。とにかくみんな寒そうです。

 最近、渋川元組に親水公園として川が整備されました。夏には地元、よそから来た子供たちで賑わいます。その一角にはからくり人形館がつくられました。ここでは1日4回、ひよんどりの舞が電子制御の人形によって披露されています。

 また、てんてんゴー渋川(旧渋川キャンプ村)には渋川が一望できる景色の良いところにコテージがたてられました。大変きれいな作りとなっています。バンガロー、テントもあり、夏には家族連れで賑わいます。

 渋川の特産品として渋川茶、椎茸などがあります。

 アメリカのお客さんがやぶきた茶の産地である大代(おおじろ)を見て、日本のスイスのようだと言われましたが、ここを中心に、渋川ではお茶の栽培が盛んで、渋川茶として売られています。



 珍撓(ちんだ)では椎茸の栽培が行われています。また自分の家で食べる分くらいは各戸で作っているところも多くあります。肉厚の椎茸はバター焼きにするととてもおいしいものです。ただ椎茸の季節にみそ汁の具が椎茸だけになるのはいただけません。

 そのほか雛祭りには桃の花、お盆にはほおづきが出荷されます。

 また渋川の最北端、都田川の水源である川宇連の山々は昔から林業が盛んで、天竜美林にも負けない杉の産地です。よく肥えた土と季候に恵まれ、木の生長は他の地よりも格段に速いと言われます。この山で働く人々は、日本一の山だといいます。



 古く明治はじめには渋川の大石喜三郎氏が巨額の私財を投じて浜松方面との新道を造り、また明治6年、郡下でもいち早く小学校を創立されました。その後も多くの郷土愛に燃える人々によって渋川は守られてきました。近年亡くなられた平野福太郎氏も教育、文化の面で地域の発展に尽くされ、渋川を心から愛していた一人と思います。

 現在、渋川で生まれ育った日展作家や能面作家もここ渋川で活躍されています。

 どこの地域にも何にも代え難い、誇るべき地域の歴史、文化があります。

 このページは外の人に渋川の良さを知ってもらうためと言うよりも、渋川で生まれ育った人たちにこの地域の歴史、文化をもう一度見直してもらいたい、そういう気持ちを込めて作りました。実は僕も最近まで本物のギフチョウは見たことがありませんでした。ここ渋川出身の人が意外と渋川のことを知らないことは多いかと思います。

 ふるさと創生はまずそこに住む人が自ら自分たちの住むまちの良さを再発見することから始まるのではないでしょうか。

ここに掲載した写真の一部は渋川歴文会発行の「遠州渋川の歴史」より引用させていただきました。

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