秋葉街道をたずねて

 宿場町 大平・川宇連の様子  賑やかりしは二、三十年の短き間なり・・・ 

  秋葉街道鳳来寺道;愛知県鳳来町鳳来寺山〜静岡県春野町秋葉山(江戸時代末期の東海道の裏街道)  

はじめに

 今ではここ大平川宇連の地名は近所の人しか知らず、ひっそりとした集落であるが、江戸時代の道程絵図にはしっかりここの地名が載っている。かつては大勢の旅人が全国から行き来し、その中には司馬江漢のような文人墨客も多くいた。
 今、その秋葉街道は人っ子一人いない山の中で静まり返っている。そのような中、昔の様子を想像するのがまた楽しい。この険しい山道を旅人たちが歩いていくのが目に浮かんでくる。そして屋号や座頭塚など、所々に残る昔の名残が想像力をよりたくましくさせてくれる。
 秋葉山と鳳来寺山の間に位置するこの大平、川宇連はその昔、宿場町として栄えたのである。今の大平、川宇連を見ただけではちょっと信じられないこの事実がおもしろい。そして、忙しい現代社会で忘れられている本当の「旅」というのをかいま見ることができる。信仰の山を目指して歩いていく旅人たちはいったいどんな気持ちだったのだろう。

 秋葉街道とは
 秋葉山に通じる道の総称で、信州からのもの、森からのもの等があります。その中で、秋葉山と、鳳来寺山を結ぶ道が、秋葉街道鳳来寺道として知られ、うちの前を通っていました。
 今は車が一日数台という山道ですが、今から150年くらい前は街道として一日数千人の人が通ったと言われます。そして、僕の家では今坂屋として名物今坂まんじゅうを売り、現在でもその看板、湯飲み茶碗が残っています。
 川宇連(かおれ)には、山本屋、三河屋等の旅館がありました。今も何気なく「ちょっと山本屋と三河屋へ行って来るね。」などと昔の屋号を使って会話しています。しかし、残念ながら、今残っているのはその当時の屋号のみとなってしまいました。
 この、あまりにも変わってしまった歴史の変化に魅せられ、小学生の頃から自由研究の課題として、図書館で調べたり、近所のお年寄りから聞いたり、また昔の書き物等を調べたりしてきました。その内容を一部ここに紹介します。

大平(おいだいら)、川宇連(かおれ)の昔

 今は大平、川宇連あわせても十数軒のひなびた集落ですが、今から150年ほど前は旅籠町として賑わったというのですから驚きです。
 川宇連にあった旅館として、坂本屋、山本屋、徳島屋、辻屋、鶴屋、三河屋、鍵屋があります。その様子を伝えるものとして、こんな唄が伝えられています。
川宇連片町 なぜ日が照らぬ
秋葉道者の 傘の陰
 
 道者(どうしゃ)とは旅人のことです。川宇連の集落は深い山に囲まれて、日が照るのは一日のうちのわずかな時間だけなので、それを唄にしたようです。
 家ではその当時、今坂まんじゅうを売る茶店だったようで、今でもその看板が残ります。
その当時使っていた湯飲みは茶碗は今も毎朝えびす様にあげる湯飲み茶碗として生きています。
 しかし、本当にそれだけで、今坂まんじゅうについて知る人もいません。ただ、今は亡き曾祖母(明治23年生まれ、享年96歳)に聞いたところ、「ここへ嫁いでから一度だけ作ってもらって食べたことがある。」と言っていました。それは薄いお米の皮であんこを包み、上には赤い粉がかけてあったそうです。
 曾祖父の覚え書きによれば、大平の峠には翁お餅を売る店があったといいます。また、大平と川宇連の境には欄干橋(手すり付きの橋)があり、これは引佐でもはじめてできたので、見物人も多く、通行料を取ったそうです。さらにこれは、気賀の清水橋よりも早かったというのですから驚きです。川宇連には先程述べた旅館以外にも馬の宿屋の馬込、かご担ぎの家もあったといいます。
 また、座頭塚というお墓があり、それには言い伝えがあります。秋葉街道が通っていた頃、目の見えない人がお金を恵んでもらっていたとき、侍に殺されてしまいました。それを知った村の人たちはお墓をつくって懇ろに葬り、今尚、大平のある家で祭っています。
 また、侍が傷を付けたために曲がったという杉の木も残っています(写真手前の木)。

曾祖父の覚え書き

 川宇連境 島尻橋代 大平地区分 金弐円づつ毎年はいる これを加えて祭料とせるもの也 笹だ峠を熊の谷上を通り尾の久保を下りて鳥山音蔵宅の所へ下り 大平をへてさがしみ山を通り 岡保屋所を通り上りて三河へ越したるもの也 これを笹田峠より川宇連柿畑をへて川宇連を通り島尻橋を経て大平に入り 座頭塚を通り船久保を通り岡保を過ぎて三河に入る因にいく 川宇連へ最初道を取る様にせし時は笹田峠より下り熊のやげを通り 川宇連鶴屋東沢に付いて下り大平座頭塚をへて三河に至る 島尻に初めて橋を設けたる時は橋銭を取りたるもの也 其当時ランカン橋は引佐内には壱つも無く 所方より是が見物に来るもの多かり 是より年をへて気賀清水に橋設け 其より明治67年頃迄は秋葉山より鳳来寺豊川寺にと参詣の者多く通り川宇連は実に旅館並立 上より坂本屋 山本屋 徳島屋 泉屋 鶴屋 三河屋旅館を初めとし辻屋 鍵屋何れも旅館也 是を考えてもいかに盛大なりしかを知るに足る 大平地にては銅の入の店二家 船久保にては名物今坂まんじゅうを売り同所峠にては翁もちとて売店あり 岡保にても商いをせる也 毎日数千人の者通り之を道者という 老人は道を修理してざるに壱ぱいの銭貰ひしという 此の後 明治十余年頃より道者少なく成りて渡世よからず 道者多く通りて盛なりし内は弐参拾年の短き間と言う也

昔の地図より  

 図書館に行って当時の様々な地図を見てみましたが、どの地図を見ても大平、川宇連のどちらかの名前が出ていました。それによると秋葉山と鳳来寺間はおおよそこのような道順です。

 鳳来寺山-大野-細川-巣山-大平-川宇連-神沢-熊-石内-雲名-西川-戸倉-秋葉山

紀行文、道中日記より

様々な文人墨客がこの道を通り紀行文に記しています。

 

 1989年10月5日静岡新聞 (2005年3月31日 静岡新聞社編集局調査部 仲野様より掲載許可を頂いています)
 「街道ひとくちメモ 秋葉街道(4)」・・・・・大平川宇連の様子がカラー写真で紹介されました。
(クリックで新聞スキャン画像が見られます。)

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